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私の台湾訪問記
(月刊『WiLL』2008年12月号)

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■私の台湾訪問記■月刊『WiLL』2008年12月号

●元中国人の私にとっての「台湾」

今年の九月二十六日から十月二日までの七日間、元中国人の私は生まれて初めて、台湾という国を訪れた。

台湾へは昔から一度行って見たかった。子供の時代から受けた共産党式の教育では、「わが中国の美しき宝の島」とか、「祖国の神聖なる領土」とかのドグマが毎日のように学校の先生から吹き込まれていたから、台湾は遠いようではけっこう「身近な」存在でもあった。大学へ進学するまで、郷里の四川省から一歩も出たことのない私もどういうわけか、「大人になったら行ってみたい所」のリストの中に、堂々と「台湾」を入れていた。

そして1990年代初頭から、当時の李登輝総統の下で成し遂げられた台湾民主化の成功は、私たちの世代の中国青年たちに大きなインパクトを与えた。例の「天安門事件」で中国の民主化運動が挫折したのはついその直近のことだったから、意気消沈のトン底に陥った私たちは、台湾の「民主化革命」の成功に未来への一縷の光を見出した。「台湾の今は、大陸の明日となるのだ」と考えていた。

勿論その時、私たちのほとんどはやはり、「台湾は中国の一部である」とのドグマを心底から信じていた。「台湾は中国の一部である」と思い込んでいるからこそ、台湾における民主化の成功を、中国全体の民主化の発端であると思ったわけである。とにかく、その時の私たちにとって、台湾こそは未来への希望であり、憧れの「民主化の聖地」であったが、「台湾は中国の一部である」という言説は、そもそも一つの虚構であることには誰も気がつかなかった。

私自身は、この大事な点を認識し始めたのは1990年代の後半からである。詳述する紙幅がないが、とにかく1990年代以来、中国共産党政権が「愛国主義」という名のウルトラナショナリズムを煽り立てて、「祖国統一」のスローガンを高らかに掲げることによってその独裁権力の正当化を図っていた、という事実を目の当たりにして、私は徐々に、共産党政権の独裁体制と、「統一した中華帝国」の虚構とはまったく一蓮托生の「兄弟分」であることが分かってきた。中国の民主化を願いながら、独裁政権を維持するための嘘のドグマを信じているとは、まさに自己矛盾ではなかろうかと悟った。

●「台湾認識」の三段階飛躍、そしていよいよ台湾へ

そう思うようになったことは、私にとって一つの飛躍的「進化」といえないが、実は2007年に入って以来、私はまた、自分自身の「台湾認識」におけるもう一つの根本的転換を経験しなければならなかった。それはすなわち、台湾を見る時の視点を、一人の中国人のものから、一日本国民としての視点への転換である。

この年の春に、私は日本への帰依を決心して、日本国籍帰化を正式に申し込んだ。その時点から、自分は当然、日本国民の立場からすべての問題を見るような心構えを持つように努力し始めた。「台湾を見る目」の転換もその一つである。今では、日本のことを愛する多くの保守的日本人たちとは同様、私も当然、台湾は日本の生命線であり、どんなことがあっても台湾は中国共産党に併合されるようなことはあってはいけない、と考えているのである。

このようにして、私という中国出身の「新日本人」は、子供の時代から現在に至るまで、「台湾」への認識におけるいくつかの「コペルニクス的転回」を経験したものだ。言ってみれば、「奪還すべき祖国の神聖領土」としての台湾から、「倣うべき民主化の聖地」としての台湾へ、そして「日本の生命線」としての台湾へと、いわば三段階の認識の飛躍があったわけである。

そして、台湾問題への認識におけるこの三段階の飛躍は、奇しくも、私という人間の成長における「段階的進化」ともぴったりと一致しているのだ。

考えてみれば、それまでに一度も台湾の土を踏んだことがないにもかかわらず、私にとってのこの南の島国は、実にそれほどに関わりの深い存在だった。何という不思議なことであろうか。

だからこそ、自分は以前から、どうしても一度台湾へ行ってみたかった。しかし、中華人民共和国の国籍だった時にはそれを実現出来そうもなかったが、幸い、去年の十一月に日本国籍に帰化してから、パスポート一つで台湾へ行けるようになった。

そして九月二十六日、関西国際空港から出発して、私はいよいよ、念願の台湾の旅へ飛び立った。

●「台湾」はやはり「中国」ではなかった。

この憧れの「美しき宝の島」に滞在した一週間、実感としてよく分かってきたことの一つはやはり、台湾は中国の一部でもなんでもない、ということである。いわゆる「中華民国」というものは、ただの虚構ではないのかと思った。

空港の税関に入る時には一応「中華民国」の国名が入った税関印がパスポートに押されたが、それ以外には、別に「中華民国」というような存在に出会うことはまったくない。どこへ行ってみても、台湾はただの台湾であった。

バスツアのガードさんも、タクシーの運転手さんも、口を開けば「われわれ台湾」云々という。「われわれ中華民国」と言う人は一人もいない。「本省人」であれ「外省人」であれ、色々な台湾人と喋っているが、自分のことを「中国人」だと称する人とは一度も遇っていない。
街中の看板には、「台湾銀行」、「台湾物産」、「台湾製糖」、「台湾故事館」と言ったように、「台湾」を冠するものは多かったが、「中国」あるいは「中華」という二文字はめったに見当たらない。

泊まりのホテルで、時々テレビのスイチを入れて見ることがある。テレビコーマシャルなどは商品を売りたい一心で、「品質が全国一」、「便利な機能国内唯一」との宣伝文句を乱発する場面が多いのは印象的であったが、よく考えてみれば、ここで言う「全国一」の「全国」や「国内唯一」の「国内」は、明らかに台湾それ自体を指した言葉で、別に「台湾を含めた中国全国」という意味ではない。当たり前のことではあるが、このような言葉の使い方からも、少なくとも台湾人自身の意識においては、彼らの暮らす国の実体はあくまでも「台湾」であることがよく分かる。

テレビのニュース番組を見ていると、さらに興味の深い現象の一つに気がついた。当時、中国産汚染粉ミルクが台湾にも害を及ぼしているので、ニュース番組は連日のようにそれを取り上げていた。その時こそ、キャスタさんやその隣のコメンテーターは口々に「中国」という固有名詞を発しているが、勿論それは、日本のテレビキャスタさんが日本のテレビ番組で「中国」と発するのとまったく同じ意味で、もっぱら、台湾と違った外国としての「中国」を指しているのである。「中国という国は本当にだめですね」、「われわれはどうやって中国からの毒拡散を防げるのか」といった調子である。

つまり、公的な放送機関としてのテレビ局の発信者たちは明らかに、中国という国を「他者としての異国」として意識しているのだし、彼らの発した「中国」という言葉を何の違和感もなく聞いている視聴者たちもおそらく、中国のことをとっくに「外国」だと認識しているはずだ。
裏返しといえばそれはすなわち、「台湾は中国とは別個の国だ」という「台湾意識」がそれほど浸透していることの証拠であろう。それは何と言っても、喜ばしい限りの良い現象ではなかろうか。

台湾の人々にこのような「台湾意識」を浸透させた最大の功労者といえば、それは言うまでもなく、私がこの台湾訪問において一度訪ねていく予定の、あの偉大なる人物である。

●友愛グループの人々との出会い

「台湾意識」というと、自分の台湾滞在中に、「台湾意識」のもっとも強い人々のグループにも出会った。台湾友愛グループの方々である。メンバーのほとんどは日本と縁の深い古き台湾人で、日本語がとても上手で日本のことをよく知っている「日本語世代」である。
会の事務局を扱っている張文芳さんという方の肝いりで、台湾では超有名な『自由時報』の本社ビルの応接間を借りて、私と友愛グループ会員の方々十数名との座談会が持たれた。

『自由時報』の応接間を使えたのは、新聞社の董事長(会長)で、友愛グループの一員でもある呉阿明氏の好意によるものだ。日本でも知られていることだが、『自由時報』こそは、台湾における「本土派マスメディア」の代表格で、台湾の自由と独立をひたすら訴え続けるという、発行部数台湾一の大新聞である。

呉阿明氏は84歳の高齢であるが、話によると、今でも毎日夜遅くまで新聞社に居て、朝刊の社説の原稿をチェックしてから家に帰るという生活をしているそうだ。

座談会は当然、日本語で言葉を交わすこととなった。まず、私が自分の「転向体験」や「日本体験」を語ることから始めたが、特に日本のこととなると、私の語った「日本認識」は彼らから大きな同感を呼んだことがよく分かる。「外国出身でありながら日本を愛している」という点においては私と彼らはいわば「同類」ではあるが、「日本」にたいする思いの熱さにおいては彼らの右に出るものはない。日本は多くの台湾人たちにそれほど愛されていることに、「新日本人」の私でさえ、かすかな感動を覚えずに居られなかった。

●台湾訪問のクライマックス、つい、あの偉人の元へ

私にとっての台湾初訪問のクライマックスは、やはり、あの偉大なる人物への拝謁であった。

台湾民主化の偉業を成し遂げた本物の革命闘士、台湾を「台湾の時代」へと導いたという文字通りの国家的指導者、二千数百万人の台湾人民の運命を背負って巨大な「中華帝国」と対決したという堂々たる武士と希代の政略家、そして、大所高所からアジアと人類世界の歴史と未来を語る天才的哲人、李登輝閣下その人である。

十月一日の午後二時、仲介してくれた台湾人経営者の方は圓山ホテルで私をピックアップして、一路李登輝閣下のご自宅へと向かった。車に乗った途端、緊張感がすでに高まってきた。

秘書の方の案内でご自宅の玄関に入ると、間違いなく、あの偉人、あの李登輝閣下は、応接間の真ん中に立っていた。小走りで近づいて大き
くお辞儀すると、閣下は私の手を取り、やさしく微笑みながら、「遠方からようこそ」と日本語で声をかけてくれた。
北京大学時代
そして、指示にしたがって対面して着席すると、閣下は開口一番、「あなたの本を読んで、感心していますよ」と述べた。そこから、二時間半にも及ぶ閣下との面会が始まったわけである。

ここではまず、初めてお目にかかった閣下への最初印象を述べよう。実は、閣下のお顔を見て話を拝聴しながら、私の頭に浮かんできたのは、『論語』に出た一つの文句である。

それは、孔子の弟子が孔子の人なりを語った有名な文句であるが、

曰く、「子は温にして_、威にして猛ならず。恭しくして安し」という。

漢学大家の金谷治氏の訳文に従えば、それはすなわち、「孔子先生は穏やかでいてしかもきびしく、おごそかであってしかも烈しくはない。恭謙でいてしかも安らかであられる」、という意味である。

それはまさしく、私の李登輝閣下にたいする第一印象そのものである。

二時間半の面会のなかで、当然、私の方は出来るだけ聞き手に徹して、閣下のお話を色々と伺おうとしていた。伺ったお話の内容の詳細は、閣下自身の許可も得ていないから勝手に公表することが出来ないが、特に印象に残ったのは、「閣下はいかにして、台湾の民主化を平和裏に達成することが出来ましたのでしょうか」という私の質問に対して、李登輝閣下は胸襟を開いて、その驚天動地の歴史的大変革の詳細と、ご自分の胸の内を語って下さった辺りである。

聞き手としての、その時の私の感動は言葉には表せない。とにかく、「歴史」を創った張本人からその「歴史」を聞かされたという、人生に二度とないような凄い体験なのである。あたかも、徳川家康本人から天下統一の物語を聞かされたかの如き、あるいは、西郷隆盛本人から明治維新の歴史とその内幕を明かされたかの如くである。

そして、閣下のお話から一つの大事な点が分かったのである。要するに、1990年代初頭から、当時の李総統の手によって進められた台湾の民主化は、その意義の深遠さは、単なる政治体制上の民主化の次元を遥かに超えたものだ、ということである。むしろ、台湾自体の民主化の実現を通じて、数千年も続いた「中華帝国の法統」という歴史的束縛から台湾を脱出させたことに、「李登輝革命」の最大の歴史的意義があったのであろう。

そして、「李登輝革命」の成功によって、今後の中国の歩むべき方向性も示されたのではないかと思う。つまり、中国それ自体も、まさに「中華帝国の法統」から脱出し、「統一大帝国」という時代錯誤の強迫観念を放棄して、台湾やチベットやウイグルやモンゴルなどの民族共同体の独立と自由を認めた上で、新型の民主主義的な連邦国家を創っていかなければならないのである。そしてそれこそは、中国人民にとっての未来への最善の道なのである。

勿論、このような形での「新中国」の誕生は、隣国のわが日本にとってもこの上のない慶事であるとは言うまでもない。こうなることによって初めて、東アジアの本当の平和が訪れてくるからである。

このような歴史的必然性にたいする自分自身の確信を深めたことは、私自身がこの度の台湾訪問から、そして李登輝閣下への拝謁から得られた最大の収穫なのである。

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